Labels

hotel (65) mac (49) ubuntu (27) English (10) chinese (9) travel (6)

Wednesday, June 10, 2020

高校受験:Fラン大はやめとけ、理系行けないなら定時制か通信制にしろ

先日、アフター・コロナの展望から理系の大学をお勧めした。しかし、理系の大学は学費が高いな。いけない人もいるだろう。

前に書いた通りで、今後文系で価値があるのはそれなりのブランド校だけだ。底辺大学に大金を払っても価値はない。嘘ではない。今でも価値はない。
よく皆が目にする統計。「大卒の平均と高卒の平均の生涯年収を比較したもの」。大卒の方が高卒よりも生涯年収が多い、というやつ。あれが嘘っぱちだ。底辺大学に行って「大卒の平均」なんか稼げるわけがない。も一回こっちのリンクを見よ。 だから、「とりあえず大学にいっといた方がいい」なんて嘘だ。
 どの辺が境界線かは難しいところだが、おそらく、ニッコマとそれ以下の間くらいに線が引かれる。つまりニッコマ未満では「大卒」の意味があまりなくなってしまう。

でも、だからと言って高卒はイヤ、という人も多いだろう。一応「大卒」の肩書も欲しかったりもする。海外で働くにしても、ビザで学位の要件が必要な場合もある。でも普通に考えたら400万円まで投じる価値はない。 じゃあどうする。

普通のFランに行くくらいなら、定時制か通信制の大学で学位を取れ

一つの選択肢は「定時制大学」だ。多くの大学で学費は全日制(昼間)の半分だ。講義は夕方からなので、昼間はフルタイムで働く事だって可能だ。なんと昼間働けば学費が稼げてしまう、となれば、「奨学金(学生ローン)」を背負わなくてもいいのだ。全日制と比べて差別的に扱われる事が稀にあるが、それはFラン大だって同じ事。同じ大学の全日制に比べて入学しやすい上、通常は「夜間コースだ」とは成績証明や卒業証明には書かれない(学校による)ので、お得だ。もちろん正規の学士号を取得できる。

もう一つの選択肢は「通信制大学」だ。これは定時制よりもさらに安い学費で学士号を取得できる。家で勉強をちゃんと自習できるか、というところがキーポイントだが、それさえクリアできればコスパは最強だ。例えば「放送大学」では学士号の取得まで、たったの70万円ほどだそうだ。こちらも稼ぎながら学士号を得られるので、親に負担をかける事もなく大卒になれる。

もちろん、社会に出て不利になる事がゼロってわけではない。なぜか全日制のFラン大生に「定時制、通信制」ということでマウントされるかもしれない。しかし、それは逆転可能だ。「浮いたお金をうまく使えばいい」のだ。

安い学費で大学教育を受けられる。そしてその分お金が浮く。浮いたお金で、セブ島に英語留学行ったり、オンライン英会話やったり、外国語学校に通ったり、簿記の資格取ったりして勉強すれば競争力がつく。たとえ大学名がいまいちでも、履歴書に「TOEIC800点」って書いてあったら面接まで辿り着ける可能性が高い。
はっきり書くが、マーチ未満の大学を見て「どこがどこよりも頭がいい」などとは誰も思わない(本人たち除く)。頭の良さ、はマーチまで。成成明学日東駒専、産近甲龍は「大学」とは認められているが「頭がいい」とは思われない。ここまでが「大学」のボトムでそれ未満だと「ああ、勉強は苦手だったのね」になってしまう。そういうところに進学しても「大卒」としての知見も知力は誰からも期待されない。それなら、大卒は「資格」と割り切って安価に資格を取って、差額のお金を能力開発に使った方がいい。


面接まで行ければいい。「働きながら苦労して学位を取った」話をしてやればいい。遊んでた連中とは大きな差がつく。 「努力家」というイメージだってつく。会社は確かに頭がいい人間も欲しいが、そればかりでなく、真面目でコツコツとめげずに努力するやつも欲しいのだ。もちろん、東大や旧帝や早慶の奴らにはそれでも敵いっこないだろう。でも、ニッコマくらいの相手なら十分対等に勝負できる。マーチでも遊んでばかりのやつには勝てるかもしれないくらいだ。

どうだろう。学生ローン組んで底辺大学行くよりもいいとは思わないか?。

Saturday, June 6, 2020

大学受験:今後、文系は淘汰されてしまう。高校生は理系を目指せ

コロナ禍で、世の中の様々な矛盾点が議論になるようになった。その中でも最も重要なのは「働き方」だろう。日本の労働形態は多分の労働集約型だ。店舗や工場、作業所はそれでいい。だが、営業部門やマーケティング部門までそうなっている。日本の「文系就職」のほとんどは営業職、販売職、事務職のどれかに分類されるだろうが、これらの職種の「必然性」がコロナで揺らいでいる。

営業職。以前は「お客様の会社に通う」のが常識だった。通って、提案を行い、協議して・・というのを当たり前のようにやっていた。リモートのツールはあったが有料だし、「行って顔を合わせてやった方がスムーズ」「リモートだと伝わった気がしない」という事で、リモート会議は「特別な会議」だった。リモート会議ツールも高価な専用機を使っているところも多かった。でも、これはコロナで変わった。社内会議はもちろんのこと、商談のような対面が主流のものさえリモートに移行するようになった。これがどんな結果をもたらすか。移動時間が減るわけだからより多くの顧客を担当できるようになるわけで、人が余ってしまう。さらに対面のように「ご挨拶に」というような形式的儀礼的な会議が減る。営業マンは余剰人員になる。
もちろん、扱っている商材や営業の役割によって対面は必要なケースもあるので、対面営業の仕組みも人員も残る。だが、数が減る。

販売職。店舗での販売員についても、減るだろう。そもそも個人向け商品の販売員は大卒である必要はなく、高卒が多い職種だ。で、Eラン、Fラン大卒の受け皿になってきた。コロナで「対面でいろいろ話しながら買う」ことが減り、多くの人がオンラインで買い物をするようになった。今まで「オンラインは・・」と躊躇していたシニア層でもオンラインショッピングの便利さを知った人も多い。顧客がオンラインに移行すれば、店員の需要が減る。なくなることはないが、減る。

事務職。ペーパーワークの多い事務職はコロナで「リモートワークできない」要素が多いことがあらわになった。ハンコや紙書類が多いからこそ人手がかかっていたことも多い。これらが改善されれば需要が減る。

文系就職を担っていた3大職種の労働需要が減少する。この中であまり減らないのは、店舗の店員だろうが、もともと「大卒」が利く需要ではない。

では、他の文系職といえば企画やマーケなどだがそもそも人手があまりいらない職種な上に、ハイレベルの知識やスキルが必要で残念だがEFラン大卒ではまずなれない。購買なども営業・販売よりはずっと少ない人数で済む。

つまりこれからは文系受難の時代だ。中途半端に法学や経済学をやっても意味がない。否、よく考えてみればもともと意味がなかった。「新卒一括採用」でもともと専門性など問われなかった。大学のブランドだけが頼りだった。ブランド就職なんだから、需要が無くなったら終わりだ。文系のブランド価値は地に落ちる。
早慶マーチ関関同立まではまだなんとかなるかもしれない。でもそれ以下は厳しい。

 高校生よ、理系を目指せ。

 一方で、理系職は事情は異なる。営業職が減ってもビジネスサイズが変わらなければ同様に需要がある。また、ブランド以上に「専門性」が重要だ。例えば、機械メーカーで「メカのエンジニアが欲しい」場合、国立やマーチの機械工学の人が取れなければ、四工大などの機械工学専攻の学生を検討するだろう。マーチだから、偏差値が高いからと言って畑違いの学科の学生を採用することは少ない。つまり、偏差値で輪切りにされにくい。
 さらにいえば、理系学部の学生は文系就職も可能だ。上に書いたように文系就職では誰も専門分野など気にしていないのだから、文系の学生と同様に会社説明会に参加して応募すれば普通に文系として就職することも可能。逆はない。
従って、理系は就職に強い。もちろん理系にもヒエラルヒーはある。大企業で研究所に入りたいとなったら、旧帝や早慶に行って修士を取らねばならない。しかしそれでも選択肢はある。学部の時代に「エンジニアは合わない」と思ったら文系就職すればいいんだ。
これだけリスクが低いのに、理系の大学を志望する人は少ない。特に女子は。主な理由は「数学が苦手」というものだろう。
しかし、数学は克服せねばならない。アフター・コロナの時代はデジタル化が進む。数字が扱えない人間の価値は下がる。アナログな味わいにももちろん価値はあるが、それを発揮できる場が減ってしまう(残れればむしろ価値が上がることもあるだろうが、大半のケースでは価値が大きく毀損される)。
マーチに行く自信がない人は数学を克服して理系を目指したほうがいい。そのほうがいい就職ができる可能性が高い。マーチの文系よりも四工大の理系の方が安定した職につける、という時代になるだろうから。

原因を作っておいて自分で解決しろと


中小機構というところのCM動画を見た

脱力するね。原因を作ってるのは制度だろうが。事情を知らないサラリーマンは「自分の仕事が大変なのは会社のせい」と思っているだろうが、仕事ができない従業員を企業に抱え込ませてこの状況を作り出しているのは「制度」だ。

自分も若い頃不満があった。いろいろ仕事を指示されるのはいいのだが、そのうち「他人の失敗の後始末」をやらされるようになった。自分の仕事を一人前こなした上に、だ。当時はプログラムの開発をしていた。与えられる仕事量は楽々にこなせたのだが、他の同期たちはそうではなかった。プロジェクトが厳しくなってくるに従って、もともと他人の担当だった仕事が振られてきたり、 他人がやって上手くいかないものの修正を命ぜられるようになった。ものすごく不満だった。会社に。自分の担当はこなしたんだから役割は果たしている、なぜ給料も変わらないのにできないやつの後始末を押しつけられねばならないんだ!と。

まあ、後日わかった。会社にとっては「仕方ない処置」だったんだ。一度雇ったら向いてないと分かってもクビにはできない。使っていくしかないんだ。でも既に人はいるので新たに人を雇うこともできない。だから、仕事ができる人間にやってもらうしかなく、負荷が集中する。 会社が人手不足になるのは、単に「デキル人間」が不足しているだけで、それは「デキナイ人間」を排除することができない(法的に許されていない)ので、会社として手の打ちようがない。IT化なんかしてもあまり意味はない。できない人間ができるようにはならないからだ。IT化して効果があるのは定型のルーチン作業の効率を上げたいときだけだ。

企業の生産性を向上させる最大の切り札は社員だし、最大の障害も社員だ。そうなってしまうのは、終身雇用で人の入れ替えが極端に制限されてしまうから。そこをなんとかしないと、この傾向は変わらないだろう。
米国のように解雇規制が緩いことろの場合でも、仕事はやはりデキル人間に集中する。しかし、だ。それに応じて処遇されることが多いので不満が少ない。なぜ処遇されるか、といえば、転職されたら困るからだ。転職するのが当たり前の米国で優秀な人材にはそれなりの処遇をしないとすぐライバルに取られちゃう。

自分の仕事を大変にしているのは、自分を守っている法律(判例)だというのは皮肉なもんだ。まあ、ほとんどのサラリーマンにはピンと来ないだろうけど。



Friday, June 5, 2020

サプライチェーンの中国依存をやめる?

ネットでは、サプライチェーンの中国依存をやめて、工場を日本に戻すような話がされている。本当なら素晴らしいことだけど、できるのかしら?。

そもそもなぜ企業は中国に製造を依存するようになったのか。それは低コストだから。そしてなぜ低コストなのか。独裁国家である中国が、人民を低賃金で奴隷労働のような環境で使役し、また、環境負荷を考えず公害も垂れ流しの状態でコストを抑えて製造する仕組みを構築したからではないのか。だとしたら、日本に工場を戻したら、中国で製造を続けるライバルに勝てっこないではないか。日本はそもそもあらゆるコストが高い。人件費も能力の割には高いし、そもそも使用の条件が厳しくて管理が大変だ。。単純労働で時給1000円の国で物を作り、管理コストもかかるとなれば価格競争力は持てない。少なくとも大量生産品は。

機械化すればいい、という人もいる。ではその同じ機械を中国に設置したら、もっとコストパフォーマンスがいい、ということになる。ロボットに頼ればいい?。ロボット動かすには電気がいるけど、日本の電気料金はバカ高く、国際競争力はなさそう。どんな国でも利権があって、それに取り憑いて美味しい思いをしている連中がいる。そいつらがコストを押し上げる訳だが、日本だってそれなりにある。日本に工場を移しても採算が取れない製品が多数ではないか。

結局、工場は日本に戻らずベトナムやフィリピン、インドネシアに移ることで落ち着くのだろうと思うのだが、一つ問題がある。以前から「チャイナ・プラス・ワン」って言って、過度の中国依存に対する警鐘は発せられたきた。これで問題になるのが、「日本人の外国語学習も中国語に集中して来た」事だ。中国語は英語に次ぐ学習者がいる(かなり差はあるが)。フランス語やドイツなどよりも多いということだ。
「チャイナ・プラス・ワン」を実現するには、「現地事情に明るく、橋渡しになれる人材」が必要となる。ところが、その入口である語学の部分での学習環境が非常にプアではないか。ASEANの言語はほとんど大学の第二外国になっていない。その上、「優れたレッスンを気軽に始められる」NHKの語学シリーズにもない。だから、本屋に行っても英語中国語韓国語ドイツ語フランス語スペイン語あたりまでは書籍があるのだが、それ以外はなかなか少ない。

もし「チャイナ・プラス・ワン」なり「中国アウト・アジアシフト」が国家戦略と言うのであれば、環境を作ることも必要ではないか。大学の第二外国語としてのコース採用を推進したり、NHKの番組を作るだけでも全然違うだろう。どの言語が有用なのかは難しいが、少なくとも、ベトナム、タイ、インドネシア(マレーも?)、フィリピン、ヒンディー、ベンガル、ビルマなど人口の多い国の言語をカバーする事は期待したい。
それらの国とパートナーシップを組んで、(コストを犠牲にしないで)現地の人たちの生活水準を向上させ、持続可能な生産拠点や場合によっては開発拠点とし、Win-Winの形を模索するのが日本流としてあるべき姿ではないか。